古代のお寺は大学だった?
― 料理屋の店主が考えた、奈良の古寺の楽しみ方
このページで考えてみたこと
- 古代の大寺は、今でいう「大学」のような場所だったのでは?
- 仏像は、まず「古美術」として楽しんでもいいのでは?
- 古代の人々は、なぜ仏の前で祈ったのだろう?
- 都が京都へ移ったあと、奈良の大寺はどうやって生き残った?
- 巨大伽藍を失った元興寺は、本当に「衰退した寺」なのだろうか?
- 奈良の古寺を楽しむ入口は、何だっていい。
〈古代の大寺を「大学」のような場所だったと考えてみると、いつもの奈良のお寺が少し違って見えてきます。〉
奈良には、東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、法隆寺……数え切れないほどの古寺があります。
ところが、奈良で学生さんたちと話をしていると、意外なほどお寺や仏像に興味がないことがあります。
考えてみれば、それも無理はないのかもしれません。
「お寺」「仏像」「信仰」と並べると、何となく難しく、少し重い。
まして「仏像は信仰の対象です」と言われれば、仏教を信仰していない若い人には、かえって近づきにくく感じられるかもしれません。
でも、せっかく大学の4年間を奈良で過ごすのです。
入口は何でもいいのではないか。
仏像を、まずは素晴らしい古美術として見てもいい。
そして古代の大寺を、「昔のお寺」ではなく「当時の大学のような場所」と考えてみたら、少し面白く見えてくるのではないか。
そんなことを考え始めました。
私は歴史や仏教の専門家ではありません。奈良で和食店を営む一料理屋の店主です。
ここから先は、そんな店主の独り言としてお読みください。
古代の大寺は「大学」だった?
飛鳥・奈良時代の大寺には、多くの僧侶が集まり、経典を読み、仏教の教えを学び、研究していました。
当時、日本に伝わっていた経典の多くは漢文です。その向こうには、インドで生まれ、中国で翻訳され、長い時間をかけて解釈されてきた巨大な仏教思想の世界があります。
「仏とは何なのか」
「人はどうすれば救われるのか」
「疫病や災害が起きたとき、どうすればよいのか」
そんなことを真剣に考えていた人たちが、古代の僧侶だったのでしょう。
そう考えると、大寺は単にお参りをする場所ではありません。
研究所であり、学校であり、同時に祈りを行う宗教施設でもあった。
奈良時代には三論、法相、華厳、律など、後に「南都六宗」と呼ばれる教学がありました。
現在の「○○宗」という宗派とは少し意味が違い、一つの寺で複数の教学が学ばれることもありました。
ならば東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、大安寺、西大寺などは、それぞれ特色を持った「カレッジ」のようなものだった、と考えると分かりやすいのかもしれません。
そんな大寺が集まる奈良は、当時の日本を代表する巨大な学術都市でもあったのでしょう。
仏像は、まず古美術として見てもいい
私は、最初から難しい仏教の知識を持って仏像を見る必要はないと思っています。
例えば、法隆寺の百済観音。
すらりと伸びた身体、長い腕、独特の柔らかな姿。
仏教を信仰しているかどうかとは別に、一つの古代彫刻として「美しい」「不思議だ」「こんなものを昔の人がどうやって造ったのだろう」と感じることはできます。
まず古美術として見る。それでもいいのではないでしょうか。
そして興味を持ったら、
「ところで、なぜこの像は造られたのだろう」
と考えてみる。
そこで初めて、仏像は美術館に飾るために造られた美術品ではなく、人々が祈りを捧げるための存在だったことに気付きます。
〈仏像をまず「古美術」として眺めてみる。そこから「なぜ、こんな像を造ったのだろう」と考えてみるのも、古寺を楽しむ入口だと思います。〉
では、経典を研究する場所だった大寺に、なぜ巨大な仏像が必要だったのでしょう。
経典に書かれた仏の世界は、目には見えません。
そこに説かれている仏を、人間が実際に向き合える姿としてこの世界に現したものが仏像だった、と考えると、私には分かりやすく感じます。
病気平癒を願って建立された本薬師寺には薬師如来が祀られ、東大寺には華厳の世界と深く結び付いた巨大な盧舎那仏が造られました。
つまり、
経典を読む。
その意味を考える。
そこに説かれた仏を仏像として現す。
そして、その仏の前で祈る。
これらは別々のことではなかったのでしょう。
「許しを請う」という祈り
古代の人々は、疫病や飢饉、天変地異を、現代の私たちとは違う世界観で受け止めていました。
人間の行いや政治の乱れなどと、災いを結び付けて考えることもありました。
そこで重要になったものの一つが「悔過(けか)」です。
自らの罪や過ちを仏の前で懺悔し、世の安寧を願う。
今風の言葉でかなり乱暴に言えば、私はこれを「許しを請う祈り」のように感じています。
その古い姿を現在まで伝えている代表的な行法が、東大寺二月堂の修二会です。
奈良では「お水取りが終われば春が来る」と親しまれ、お松明がよく知られていますが、その根底にあるのは十一面観音に対して行われる悔過です。
〈東大寺二月堂。春の風物詩として知られる修二会も、その根底には十一面観音に罪を懺悔する「悔過」の祈りがあります。〉
1300年近く前の人々が何を恐れ、何を願い、仏に何を訴えたのか。
そんなことを少し知ってから修二会を見ると、「奈良の春の風物詩」だったものが、少し違って見えてきます。
ところが、都は奈良を離れてしまった
ここまで考えて、また疑問が出てきました。
平安京へ都が移った後、これらの巨大な大寺はどうやって生きていったのだろう。
国家の庇護を受けて発展してきた大寺にとって、これは大変な環境変化だったはずです。
ところが、その後の歴史を見ると、それぞれの寺が実に違う道を歩んでいます。
興福寺には藤原氏がいた。
東大寺には大仏があった。
法隆寺には聖徳太子信仰があった。
西大寺は奈良時代の巨大伽藍を失いましたが、鎌倉時代に叡尊が戒律復興などを進め、後の真言律宗へつながる新しい道を歩みました。
薬師寺も1300年間ずっと順風満帆だったわけではありません。多くの伽藍を失いながら、近現代には写経勧進という方法によって大規模な伽藍復興を成し遂げています。
一方、奈良時代には国家を代表する大寺だった大安寺は、巨大伽藍を失いました。それでも寺そのものが消えたわけではなく、現在も信仰は続いています。
ここで気付きました。
「巨大伽藍を残すこと」と「寺が生き続けること」は、同じではない。
では、元興寺はどうなのでしょう。
元興寺は「生き残れなかった寺」なのだろうか
私にとって最も身近なのが元興寺です。
その前身は飛鳥の法興寺、現在の飛鳥寺にまでさかのぼります。
平城京へ移ってきた元興寺は、現在からは想像できないほど広大な寺域を持っていました。
しかし、その巨大伽藍は次第に失われていきます。
〈現在の元興寺。奈良時代には、現在の姿からは想像できないほど広大な寺域を持つ大寺でした。〉
それだけを見れば、
「元興寺は衰退してしまった」
ということになるでしょう。
でも、本当にそれだけなのでしょうか。
元興寺の旧境内には、やがて人々が暮らす町が形成されました。
それが現在の「ならまち」へとつながっていきます。
巨大寺院としての姿は失われても、境内の一部では信仰が受け継がれました。そして、かつて伽藍や僧坊があった場所には町家が建ち、人々が暮らし、商いをするようになりました。
寺が町になった。
そう考えると、元興寺は東大寺や興福寺とはまったく違う姿で、現在の奈良に残っているようにも思えます。
〈かつて元興寺の伽藍や僧坊が広がっていた旧境内には、やがて人々が暮らす町が生まれました。現在の「ならまち」です。〉
入口は何でもいい
最初は、奈良で学生生活を送る若い人たちに、もう少し奈良のお寺や仏像に興味を持ってもらえないだろうか、というところから始まった話でした。
でも、最初から仏教を勉強する必要なんてないと思います。
百済観音を見て、
「きれいだな」
でもいい。
興福寺の阿修羅像を見て、
「格好いいな」
でもいい。
東大寺の巨大な伽藍を見て、
「ここに昔、日本中から頭のいい人たちが集まって勉強していたのかな」
と想像してもいい。
建築でも、庭でも、仏像でも、歴史でもいい。
入口は何でもいい。
一つ「これは面白いな」と思えば、「なぜ?」が一つ生まれます。
その疑問を追いかけてみると、仏像から経典へ、経典から僧侶へ、僧侶から祈りへ、そして古代から現在の奈良へと、思いもよらないところまで話がつながっていきます。
奈良の大学で過ごす4年間。
全部のお寺を見る必要も、仏像の名前を覚える必要もありません。
でも卒業して奈良を離れるときに、
「奈良にいたから、ちょっと奈良のお寺が好きになった」
そんな学生さんが一人でも増えたら、奈良で店を営む者として嬉しく思います。
もちろん、これは学生さんだけの話ではありません。
奈良を訪れる方にも、有名だから、国宝だからというだけではなく、自分なりの入口から古寺を楽しんでもらえればと思います。
そして、そんなことを考えている私の店も、元興寺の旧境内にあります。
1300年前、この辺りを歩いていたのは僧侶だったのか、寺で働く人だったのか、それとも遠くから寺を訪ねてきた人だったのか。
――などと、元興寺の旧境内にある料理屋で、勝手な想像を巡らせています。
そんな想像を一つ持って奈良の古寺を歩いてみると、いつもの風景が少し違って見えるかもしれません。





