【元興寺塔跡|失われた五重塔と、ならまちに残る記憶】

世界遺産・元興寺(極楽坊)を訪れた方でも、「元興寺は一つのお寺」と思われる方は少なくありません。

しかし、奈良時代に広大な寺域を誇った元興寺は、長い歴史の中で姿を変え、現在では

  • 元興寺(極楽坊)
  • 元興寺塔跡
  • 元興寺小塔院

それぞれが古代元興寺の歴史を受け継いでいます。

宗派や寺宝、拝観方法などはそれぞれ異なりますが、いずれも1300年以上にわたる元興寺の歴史を今に伝える大切な場所です。


奈良時代から建ち続けた五重塔

現在の塔跡には広い基壇だけが残されています。

しかし、この場所には奈良時代に建立された元興寺五重塔が、約1300年にわたって建ち続けていました。

現在修理中の興福寺五重塔は室町時代の再建ですが、元興寺五重塔は奈良時代以来の建物でした。

もし現存していれば、日本を代表する木造建築の一つとして世界中から注目を集めていたことでしょう。


「たった160年前」の火災

その五重塔は、文久元年(1861年)の火災で焼失しました。

奈良国立博物館の先生から伺ったお話があります。

先生は、この五重塔について、

「160年前ですよ。たった160年前です。

1300年間建ち続けてきた建物が、つい最近の火事で失われたと考えると、本当に惜しいですね。」

と話してくださいました。

この言葉が、今も心に残っています。

私たちは幕末を遠い昔のように感じます。

しかし、1300年という時間の中で見れば、160年はほんの一瞬です。毘沙門町で魚を焼いていた火が燃え広がり、運悪く修理のため屋根瓦を外していた五重塔へ延焼したそうです。

だからこそ、この塔を失ったことが、今なお惜しまれているのでしょう。


町に語り継がれた火災

その先生によれば、少し前までは、ならまちで

「祖父母から、元興寺五重塔が焼けた日の話を聞かされた。」

という方がおられたそうです。

その話では、

「天から火の粉が降ってきて、本当に怖かったそうだ。」

と語り継がれていたといいます。

現在では、そのようなお話を直接聞ける方もいらっしゃいません。

それでも、歴史書には残らない町の記憶が、人から人へ受け継がれてきたことを思うと、この火災が当時のならまちに与えた衝撃の大きさが伝わってきます。


はり新も、その時代を見ていました

元興寺五重塔が焼失した頃、はり新の建物はすでにこの地に建っていました。

塔跡までは歩いて数分。

燃え上がる五重塔は、この建物からも見えていたことでしょう。

語り継がれるように火の粉が町へ舞ってきたのであれば、はり新の屋根にも降り注いでいたのかもしれません。

確かな記録は残っていません。

しかし、同じならまちで江戸時代から時を刻んできた建物として、この町の大きな出来事を見つめていたことは間違いありません。


今は桜が人々を迎える場所

春になると、塔跡には見事な桜が咲き誇ります。

地元ではよく知られた桜の名所で、多くの方が花を楽しみに訪れます。

天平の五重塔は失われましたが、その場所には毎年変わらず春が訪れます。

かつて空高くそびえていた塔に代わって、今は桜がこの場所の歴史を静かに見守っているようです。

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春には満開の桜が咲く元興寺塔跡。かつてこの場所には、奈良時代建立の五重塔がそびえていました。


少しずつ未来へ受け継がれる塔跡

以前は日中であれば自由に立ち入ることができた塔跡ですが、現在は公開日が限られています。

一方で、近年は奈良国立博物館に寄託されていた寺宝が戻るなど、文化財を守り伝えるための取り組みが少しずつ進められています。

失われた五重塔を元に戻すことはできません。

それでも、この場所の歴史を未来へ伝えようという歩みは、今も静かに続いています。


ならまち散策の途中に

世界遺産・元興寺(極楽坊)から塔跡までは徒歩数分です。

極楽坊で奈良時代から伝わる伽藍を見学し、塔跡に立てば、かつてこの一帯が広大な元興寺の境内であったことを実感できるでしょう。

そして、奈良の歴史に思いを馳せた一日の締めくくりに、はり新にて奈良のお料理や飛鳥鍋をごゆっくりお楽しみいただければ幸いです。

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