川原寺跡――飛鳥に残った謎の大寺
〈現在の川原寺跡。広い史跡の向こうに、川原寺の法灯を受け継ぐ弘福寺があります。〉
一時期、私は「かつての大寺」に興味を持ち、本薬師寺跡、大官大寺跡、山田寺跡、そして川原寺跡などを訪ねて歩いたことがあります。
現在は礎石や基壇が残るだけの静かな場所に、かつて巨大な堂塔が建ち並んでいた。
「これほど大きな寺が、なくなってしまうんだ」
川原寺跡も、そんなことを考えさせられる場所のひとつです。
飛鳥時代、川原寺は大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに「四大寺」に数えられた大寺でした。
ところが、これほど重要な寺でありながら、創建についてはよく分かっていません。
誰が、何のために建てたのか
この場所には斉明天皇の川原宮があったとされ、661年に斉明天皇が亡くなった後、その冥福を祈るために川原寺が造営されたという説が有力です。
『日本書紀』には、673年に川原寺で一切経の写経が行われたことが記されています。この頃にはすでに有力な寺院として存在していたのでしょう。
やがて朝廷の強い支援を受け、大官大寺、薬師寺、飛鳥寺と並ぶ四大寺の一つとなります。
これほど格式の高い寺なのに、その始まりがよく分からない。
川原寺は、最初から少し不思議な寺です。

〈川原寺跡に残る礎石。ここに金堂や塔などが建ち並んでいた風景を想像します。〉
発掘調査によって、南から南大門、中門、中金堂、講堂が並び、中金堂の前には塔と西金堂が東西に向かい合う、独特の伽藍だったことが分かっています。
現在も残る礎石を見ながら、そこに柱を立て、金堂や塔を頭の中で戻してみる。
寺院跡には、そんな楽しみ方もあります。
橘寺から坂を下りて
川原寺跡のすぐ南、高台には橘寺があります。
橘寺も塔や金堂などを備えた古代寺院でしたが、川原寺は朝廷の支援を受けた四大寺の一つ。飛鳥時代には、現在からは想像しにくいほど大きな伽藍が坂の下に広がっていたのでしょう。
私は一時期、橘寺から北へ歩くことがよくありました。
橘寺を出て坂を下り、道を渡る。川原寺跡を眺めながら細道を歩き、飛鳥坐神社の石段下を通り抜け、そのまま農道を進む。
今はとても静かな道です。
〈橘寺から見た川原寺跡周辺の静かな道。この辺りが飛鳥の都だったことを想像しながら歩きました。〉
しかし、この辺りには宮があり、大きな寺院があり、人々が行き交っていた。
「私は今、当時の首都を歩いているのかな。今でいう官庁街のような場所だったのかな」
そんなことを考えながら歩いていました。
もちろん「官庁街」というのは私の勝手な想像です。
けれど遺跡と遺跡の間を実際に歩いてみると、地図だけでは分からない飛鳥の都の距離感が見えてきます。
橘寺から川原寺へ向かうと、坂を下ります。反対側の飛鳥坐神社も高い場所にあり、川原寺跡が低い場所にあることが実際に歩くと分かります。
私は以前から、
「この辺りは水が入りやすい土地だったのではないか」
と気になっていました。
発掘調査では、川原寺創建以前、この付近に自然流路や沼地があったと考えられる痕跡も確認されています。
歩いて感じた高低差と発掘調査の成果を重ねてみると、「川原」という名前まで気になってきます。
四大寺の中で、飛鳥に残った川原寺
710年、都は平城京へ移ります。
それに伴い、大官大寺は大安寺へ、飛鳥寺(法興寺)は元興寺へ。薬師寺も平城京に新たな伽藍が造営されました。
その「移り方」はそれぞれ異なります。建物や部材の一部が移されたもの、旧地にも寺を残したもの、新たな伽藍を造営したものがあります。
それでも大安寺、元興寺、薬師寺は、後の「南都七大寺」へとつながっていきました。
ところが、川原寺は飛鳥に残りました。
なぜだったのでしょう。
平城遷都後も川原寺は寺院として存続し、のちには東寺との関係を深めます。しかし長い年月の中で火災などに遭い、四大寺の一つだった巨大な伽藍は次第に失われていきました。
〈川原寺跡に残る石碑。古代の大寺が姿を変えた後も、この場所には長い寺の歴史が重なっています。〉
ここで、ふと考えることがあります。
川原寺のすぐ南、高台には橘寺があります。
飛鳥時代、四大寺の一つだった川原寺は、橘寺よりもはるかに大きな存在だったのでしょう。
しかし都が平城京へ移った後も、橘寺はそこにありました。そして川原寺も飛鳥に残りました。
長い年月の中で、川原寺の巨大な伽藍は次第に姿を変え、やがて失われていきます。
大寺だった川原寺が次第に姿を変えていくのを、橘寺は高台からどんな気持ちで眺めていたのだろう。
もちろん、寺に気持ちがあるわけではありません。
私の勝手な想像です。
けれど橘寺から坂を下り、川原寺跡を眺めていると、そんなことまで考えてしまいます。
大寺は消えても、寺は消えなかった
ただし、「川原寺はなくなった」と言ってしまうのも正確ではありません。
四大寺の一つとして栄えた巨大な伽藍は失われましたが、その法灯は現在の弘福寺へと受け継がれています。
平城京へ移って南都の大寺となった寺がある一方、川原寺は飛鳥に残り、規模も姿も変えながら、この場所で寺の歴史をつないできました。

〈弘福寺門前に残る「史蹟 川原寺阯」の石碑。大伽藍は失われましたが、川原寺の法灯は現在の弘福寺へ受け継がれています。〉
川原寺跡には、かつての大伽藍はありません。
しかし礎石があり、基壇があり、高台には橘寺があります。
「なぜ、ここにこれほど大きな寺を造ったのだろう」
「なぜ四大寺の中で、川原寺は平城京へ行かなかったのだろう」
「橘寺からは、どんな川原寺が見えていたのだろう」
そんなことを考えながら歩いていると、現在の静かな風景の向こうに、かつての飛鳥が少しずつ重なってきます。
奈良や飛鳥は、今あるものを見るだけでなく、なくなったものを想像すると面白い。
川原寺跡は、私にとってそんな場所のひとつです。


