奈良の夏は暑い。
盆地にある奈良市では、夏になると厳しい暑さの日が続きます。
そんな奈良で育った人の中には、子どもの頃、夏になると家族に連れられて川遊びに出かけた思い出を持つ方も多いのではないでしょうか。
私にも、そんな「夏の川」の記憶があります。
私が連れて行ってもらったのは、五條を流れる吉野川でした。
川の水はとても澄んでいました。そして、暑い日に入っても驚くほど冷たい。
河原では夏の日差しに焼かれた石が熱くなっているのに、一歩川へ入ると水の冷たさに驚かされます。
川の中を歩いていて、突然、足が川底に届かなくなり、怖い思いをしたことも覚えています。
周囲には木々が茂り、聞こえてくるのは水の流れる音。
子どもにとって川は楽しい遊び場でしたが、同時に少し怖い場所でもありました。水深も流れも一定ではありません。
プールとはまったく違う自然の中で遊んでいたのだと、今になって思います。
奈良の夏、山へ、川へ
奈良で「夏の川」と聞いて思い浮かべる場所は、人それぞれでしょう。
吉野川はもちろん、東吉野村の清流、そして天川村も、奈良の夏を代表する山と水の風景です。
洞川の清流や、天河大辨財天社のある天川村へ、夏になると涼を求めて出かける人も少なくありません。
私も以前、夏の天川村へ出かけたことがあります。
ところが、あまりの人出で駐車場はいっぱい。とうとう車を停めることができず、そのまま素通りして帰ってきたことがあります。
それほど、奈良で暮らす人にとって「暑くなったら山へ、川へ」というのは、昔から馴染み深い夏の過ごし方なのかもしれません。
ちなみに天河大辨財天社も「水」と無縁ではありません。御祭神の辨財天は水の神としても信仰され、神社の公式な由緒にも水との深い関わりが記されています。
奈良の山へ分け入っていくと、清流と人々の信仰が結びついた場所がいくつも残っているのです。
暑い夏に訪ねたい、東吉野の川
そんな奈良の「川の夏」を今も感じさせてくれる場所のひとつが、奈良県東部の東吉野村です。
三重県との県境に近い山あいの村で、美しい山々と清流に囲まれています。
奈良市内から東吉野へ向かうと、同じ奈良県でありながら、次第に周囲の景色が変わっていきます。
山が近くなり、道の傍らを流れる川の水が美しくなってくる。
暑い奈良盆地を少し離れて、こんな奈良を訪ねてみるのも夏ならではの楽しみではないでしょうか。
〈夏の東吉野村。山々に囲まれた清流では、川遊びを楽しむ人たちの姿が見られます〉
もちろん、自然の川です。
急に深くなるところもあれば、流れの速いところもあります。子どもの頃の私が吉野川で経験したように、水がきれいだからといって安全とは限りません。川に入る場合には十分な注意が必要です。
けれども、川に入らなくてもいいのです。
木々の間を流れる水を眺めたり、川の音を聞いたりするだけでも、奈良盆地の夏とは少し違った時間を楽しむことができます。
清流のほとりに鎮座する丹生川上神社
そして東吉野を訪ねるなら、ぜひ立ち寄っていただきたいのが「丹生川上神社」です。
東吉野村に鎮座する丹生川上神社。水一切を司る罔象女神を祀る古社です。
神社の前を流れるのは高見川。
私が初めてこの神社を訪れたとき、強く印象に残ったのも、まず川の美しさでした。
澄んだ川の水と夏の青空、そして山々の緑。
境内の落ち着いた雰囲気もあって、とても気持ちのよい神社だったことを覚えています。
ところが丹生川上神社について調べてみると、単に山あいにある美しい神社というだけではありませんでした。
実は、大変に古い歴史と高い格式を持つ神社なのです。
1300年以上、水を祀ってきた神社
丹生川上神社の主祭神は「罔象女神(みづはのめのかみ)」。
水一切を司る神様として祀られています。
神社の創祀は今から1300年以上前、天武天皇の時代と伝えられています。
古くから雨を司る神として信仰され、日照りが続けば雨が降ることを願い、長雨が続けば雨が止むことを願う。
農作物の出来不出来が人々の暮らしを大きく左右した時代、水を司る神様に祈ることは、国にとっても大切なことでした。
平安時代には朝廷から特に崇敬された「二十二社」の一社に数えられ、『延喜式』では名神大社とされています。
現在の知名度だけで考えると、少し意外に感じられるかもしれません。
奈良には春日大社や大神神社など全国的によく知られた神社がありますが、山深い東吉野にも、これほど重要な神社が鎮座しているのです。
〈水を司る神を祀る丹生川上神社。境内周辺では、水そのものに神聖さを感じさせる風景に出会います〉
一度は、その場所さえ分からなくなった
丹生川上神社の歴史でもうひとつ興味深いのは、これほど重要な神社でありながら、長い歴史の中で衰退し、ついにはその所在地さえ分からなくなってしまったことです。
明治時代になると、その所在地をめぐって研究や調査が行われました。
現在は東吉野村の中社、川上村の上社、下市町の下社の三社に、その信仰が受け継がれています。
由緒ある神社が一度歴史の中に埋もれ、後世の人々が古い記録をたどりながら、その場所を探し求めた。
そんな歴史があることも、丹生川上神社の興味深いところです。
神武天皇の伝承が残る「夢淵」
丹生川上神社の神域には「夢淵」と呼ばれる場所があります。丹生川上神社の神域「夢淵」。清流が合流するこの淵には、『日本書紀』に記された神武天皇の伝承が残ります。
『日本書紀』には、神武天皇が大和を平定する際、丹生川上の地で戦勝を祈り、厳瓮(いつべ)と呼ばれる瓶を水に沈め、魚の様子によって勝利を占ったという伝承があります。
その舞台と伝えられているのが夢淵です。
そして、そのとき水面に浮かんだ魚が、「魚」に「占」と書く「鮎」であったという伝承も残されています。
奈良の歴史というと、奈良公園の寺社や平城宮跡、飛鳥などを思い浮かべる方が多いでしょう。
しかし、山深い東吉野の清流のほとりにも、こんな古代の物語が残っています。
雨乞いには黒馬、雨止めには白馬
丹生川上神社は、「絵馬発祥の神社のうちの一社」とも伝えられています。
古くは雨乞いをするときには黒馬を、雨が続いて止んでほしいときには白馬または赤馬を、水の神様へ献上したといいます。
水の神に馬を奉ることが、後の絵馬の起源のひとつとされています。
今ではさまざまな願い事を書いて奉納する絵馬ですが、その起源をたどっていくと「水」へ行き着く。
そう考えると、神社の前を流れる清流も、また違って見えてきます。
「水の奈良」を訪ねてみませんか
奈良というと、お寺や仏像、鹿を思い浮かべる方が多いでしょう。
けれども奈良県は周囲を山々に囲まれ、その山からたくさんの川が流れ出す土地でもあります。
海のない奈良県で育った私たちにとって、夏の水辺といえば「川」だったという人も少なくないと思います。
冷たい水。
日に焼けた河原の石。
川底まで見える澄んだ水。
木々に囲まれた川辺。
そして、少し怖かった深い淵。
子どもの頃に川で遊んだ記憶は、何十年経っても不思議なくらい鮮明に残っています。
暑い奈良の夏。
奈良公園やならまちとは少し違う奈良を訪ねたくなったら、東吉野まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
美しい川を眺め、その水のほとりに鎮座する丹生川上神社を訪ねる。
1300年以上にわたって、人々はここで水を大切にし、水を畏れ、水に祈ってきました。
そのすぐそばを、今も澄んだ川の水が流れています。
奈良の夏には、川の記憶がある。
東吉野の清流を眺めていると、そんなことを思い出します。


