【猿沢池の五十二段と六道の辻|奈良の人が歩き続けた五十二段】

猿沢池の五十二段と六道の辻

奈良の人が歩き続けた五十二段

猿沢池から興福寺へ向かって、大きな石段が伸びています。

その名は、そのまま「五十二段」。

奈良を訪れた方なら、猿沢池から興福寺へ向かう途中、何気なく上ったことがあるかもしれません。

しかし奈良で育った私にとって、五十二段は単なる観光名所ではありません。

子どもの頃に聞いた少し怖い話。友達と遊んだ記憶。父から聞いた終戦直後の光景。そして大人になってから偶然目にした、いつもとは違う五十二段。

振り返ってみると、この五十二段の石段には、いくつもの時代の記憶が重なっています。


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〈猿沢池から望む五十二段と興福寺五重塔。池畔から石段を上れば、興福寺境内へと続きます。
※左は五重塔が修理の覆いに包まれる以前に撮影したものです。右は現在の猿沢池と五十二段〉

 

なぜ「五十二段」なのか

五十二という数は、仏教で菩薩が悟りに至るまでの修行の段階、「菩薩五十二位」に由来するといわれています。

一段、また一段と上り、五十二の段階を経て悟りへ近づいていく。

そう考えると、猿沢池から興福寺へ上るこの石段が、少し違ったものに見えてきます。

そして、その五十二段の下にあるのが「六道の辻」です。

六道とは、仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という六つの世界。

五十二段を上れば、悟りの世界へ。その下には六道の辻がある――。

子どもにとっては、何とも想像力をかき立てられる場所でした。

「ぼくは五十二段を覚えておこう」

私が「五十二段」と「六道の辻」の話を初めて聞いたのは、小学校低学年の頃だったと思います。

我が家の法事に来てくださった馴染みの住職が、説法の中でこんな話をしました。

「人は死んでしまうと皆、猿沢池に行く。そこから六本の道のうち、ひとつを選ばなければならない。しかし、死んでしまうと、どの道が極楽へ続くのか分からなくなる。だから残された者が、正しい道へ導いてあげるためにも、皆でお経を読んであげなさい――」

幼かった私には、これがずいぶん怖い話に聞こえました。

「ぼくは、死んだら道に迷わないよう、五十二段を覚えておこう」

そう強く思ったことを、今でも覚えています。

しかも、死んだ人たちが六道の辻に集まってくるような気がして、しばらくは猿沢池へ近づくことさえ怖くなりました。

今となっては懐かしい、子どもの頃の思い出です。


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〈五十二段の上から見下ろす景色。子どもの頃は、この五十二段が遊び場でもあり、少し怖い物語の舞台でもありました。〉

 


怖い場所なのに、格好の遊び場

そんな話を聞かされて怖がっていた一方で、五十二段は地元の子どもたちにとって格好の遊び場でもありました。

よくやったのが「じゃんけんグリコ」です。

じゃんけんをして、勝った言葉の文字数だけ階段を上っていく。五十二段という長さは、この遊びにはちょうどよかったように思います。

この界隈で育った人なら、五十二段で遊んだ記憶を持つ人も少なくないのではないでしょうか。

菩薩が悟りへ至る五十二の段階を、子どもたちは「グ・リ・コ」と言いながら上っていた。

今になって考えると、なんとも奈良らしい光景だったように思えます。

父が見た、終戦直後の五十二段

父からは、まったく違う五十二段の話を聞きました。

終戦直後、進駐軍の兵士がジープで五十二段を上っていったというのです。

父は昭和12年生まれ。当時はまだ子どもでした。

大きな軍用車が、奈良の人なら誰もが知る石段を駆け上がっていく。

それがどれほど異様な光景だったのか。子どもだった父にも、強烈な印象として残ったのでしょう。

後になって調べてみると、これは我が家だけに伝わっていた話でもありませんでした。

奈良出身の洋画家・絹谷幸二氏も、終戦直後の記憶として、兵士たちが興福寺下の五十二段をジープで上り下りしていたことを回想しています。

当時、この界隈に暮らしていた人々の間では、よほど印象深い出来事だったのでしょう。

五十二段がスクリーンになった日

そして私自身にも、大人になってから忘れられない光景があります。

2012年9月14日の未明。

中央市場に行く途中で五十二段下を通ると、石段に映像を投影する試験が行われていました。

その日から始まる「なら国際映画祭2012」のためのものでした。

後に確認すると、同年の映画祭では、五十二段をスクリーンに見立てたプロジェクションマッピングが実際に行われています。

子どもの頃には「六道の辻」の話を聞いて怖がり、友達とはじゃんけんグリコをして遊んだ五十二段。

父の時代には、そこを進駐軍のジープが走った。

そして2012年には、その石段そのものが巨大なスクリーンになった。

同じ五十二段なのに、時代によってまったく違う顔を見せています。

石段も、ずっと同じではない

奈良の石段というと、何百年も同じ姿のまま残っているように感じてしまいます。

しかし五十二段も、ずっと現在の姿だったわけではありません。

古い写真を見ると、かつての五十二段には途中に踊り場がありました。現在につながる形の石段が整えられたのは明治時代で、その後も修理を重ねながら現在まで受け継がれています。

変わらないように見える奈良の風景も、実は少しずつ変わり続けています。

それでも「五十二段」という場所そのものは、世代を越えて奈良の人々の記憶に残ってきました。

ならまちと興福寺を結ぶ五十二段

現在の五十二段は、奈良公園・興福寺と猿沢池、そしてならまちを結ぶ道でもあります。

奈良国立博物館や興福寺からならまちへ向かう時、猿沢池へ下りる道はいくつもあります。

奈良ホテル前を通る道。うな菊さんの脇を抜ける道。大仏館さんの脇から下りる道。采女神社の前へ出る道。

その中でも、五十二段を下りて猿沢池へ出る道は、私の好きな道の一つです。

反対に、ならまちを歩いたあと猿沢池へ出て、この五十二段を上れば、そこはもう興福寺の境内。

現在、五重塔は保存修理のため大きな覆いに包まれていますが、工事を終えれば、再び五十二段の向こうに美しい塔の姿を見ることができるでしょう。

奈良を歩いた思い出に

五十二段は、それだけを目的に遠くから訪ねるような場所ではないのかもしれません。

けれど、奈良を歩く途中で、ぜひ通ってほしい場所です。

一段ずつ数えながら上ってみるのもいい。

階段の上から猿沢池を振り返ってみるのもいい。

そして、ここで昔の奈良の子どもたちが「じゃんけんグリコ」をして遊んでいたことを、少しだけ思い出していただければと思います。

古い信仰の話があり、子どもたちの遊びがあり、戦後の記憶があり、現代の映画祭の舞台にもなる。

奈良には、こうした何気ない場所に、いくつもの時代が重なっています。

ならまちへ来る時にも。
ならまちから帰る時にも。

五十二段を歩いたことそのものが、奈良の小さな思い出になってくれれば嬉しく思います。

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