【山田寺跡|失われた大寺を想像する】

山田寺跡――失われた大寺を想像する

一時期、私は「かつての大寺」に興味を持ち、本薬師寺跡や川原寺跡、大官大寺跡などを訪ねて歩いたことがあります。

奈良や飛鳥には、かつて巨大な伽藍を誇りながら、今ではその建物のほとんどが失われてしまった寺院跡がいくつもあります。

「これほど大きな寺が、なくなってしまうんだ」

そんなことが気になって訪ねた場所のひとつが、桜井市にある山田寺跡でした。

2026年7月、山田寺跡を含む「飛鳥・藤原の宮都」は世界文化遺産に登録されました。

現在は、かつての塔や金堂、回廊などの跡が整備されています。

大きなお堂も、そびえ立つ塔もありません。

しかし、その歴史を少し知ってからこの場所に立つと、何もないように見えた風景が少し違って見えてきます。

蘇我氏が建てた山田寺

山田寺の造営を始めたのは、蘇我倉山田石川麻呂です。

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〈世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産となった山田寺跡。かつては金堂、塔、回廊などを備えた大伽藍が広がっていました。〉

 

641年に造営が始まり、643年には金堂が建てられたと伝えられています。

「蘇我氏」と聞くと、645年の乙巳の変で蘇我入鹿が中大兄皇子らによって討たれ、その後、父の蘇我蝦夷も自害した出来事を思い浮かべる方も多いでしょう。

しかし、乙巳の変で蘇我氏のすべてが滅びたわけではありません。倒れたのは蝦夷・入鹿につながる蘇我氏の本宗家でした。

蘇我倉山田石川麻呂も蘇我氏の一族です。

しかも石川麻呂は、同じ蘇我氏でありながら乙巳の変では中大兄皇子側に立ち、入鹿を討つ側に加わりました。その後、新しい政権で右大臣となります。

また、『日本書紀』では蘇我蝦夷・入鹿の専横ぶりが強く描かれていますが、この史書が完成したのは事件から長い年月を経た720年です。

蘇我氏が古代国家の形成や仏教の受容に大きな役割を果たしたことも含め、その姿を単純な「悪役」としてだけ捉えることには慎重な見方もあります。

山田寺の歴史をたどっていると、「蘇我氏とは、実際にはどのような一族だったのだろう」と考えたくなります。

石川麻呂が最後を迎えた山田寺

乙巳の変からわずか4年後の649年、今度は蘇我倉山田石川麻呂自身に謀反の疑いがかけられました。

石川麻呂は、自ら造営していた山田寺へ逃れます。

そして、この寺で妻子らとともに命を絶ちました。

後に石川麻呂の無実が明らかになったと『日本書紀』は伝えています。

創建者が、自ら造営した寺で最後を迎える――。

山田寺の歴史には、創建の早い時期から大きな悲劇が刻まれています。

しかし、それで山田寺が消えたわけではありません。

一時中断した造営は再開され、676年には塔が完成。685年には丈六仏の開眼供養が行われ、天武天皇も山田寺を訪れています。

石川麻呂がいなくなった後も、山田寺は大寺へと成長していったのです。

土の中から現れた飛鳥時代の回廊

山田寺跡を特別な遺跡にしているもののひとつが、発掘された東回廊です。

発掘調査では、倒れた回廊の建築部材が土中から良好な状態で発見されました。

飛鳥時代の木造建築を具体的に知ることのできる、大変貴重な発見です。

出土した部材は長期間にわたる科学的な保存処理を経て、現在は奈良文化財研究所飛鳥資料館で、実物の部材を用いた東回廊を見ることができます。

1000年以上も土中にあった木材を、発掘後どのように保存したのか。

そこにはPEG(ポリエチレングリコール)を使った興味深い保存技術があります。この話については、飛鳥資料館のページで改めてご紹介したいと思います。

藤原道長が見た「奇偉荘厳」の山田寺

平城京へ都が移った後も、山田寺はすぐに衰退したわけではありません。

1023年には藤原道長が山田寺を訪れています。

当時の山田寺は「奇偉荘厳」と表現されるほどの姿を保っていたことが伝わっています。

現在の静かな史跡に立ってみると、ここに大きな堂塔が並んでいた光景を想像するのは簡単ではありません。

しかし、およそ1000年前、藤原道長はその光景を実際に見ていたのでしょう。

興福寺へ運ばれた山田寺の仏さま

その山田寺も、平安時代後期になると次第に大伽藍を失っていきます。

そして1187年、興福寺東金堂の衆徒が山田寺へ押しかけ、講堂の本尊だった丈六薬師三尊像を運び出し、興福寺東金堂の本尊としました。

その後、興福寺東金堂は火災に遭い、山田寺から運ばれた薬師如来像も失われます。

しかし、その頭部は残りました。

現在、興福寺に伝わる国宝「仏頭」です。

山田寺を造ったのは蘇我氏の一族。そして興福寺は藤原氏の氏寺です。

乙巳の変、石川麻呂の最期、そして500年以上を経て起きた興福寺への仏像の移動。

これらを一続きの「蘇我氏と藤原氏の対立」と考えることはできません。それぞれの出来事には、それぞれの時代の事情があります。

実際、藤原道長自身が山田寺を訪れ、その壮麗な姿を目にしています。

それでも山田寺の歴史をたどっていると、蘇我氏と藤原氏という古代日本を形づくった二つの勢力について、いろいろと考えたくなります。

巨大な寺は消えても、山田寺は残った

現在、かつての大伽藍はありません。

しかし、山田寺そのものが完全に消えてしまったわけでもありません。

講堂跡付近には小さな観音堂が建ち、現在も「大化山 山田寺」の名を伝えています。

かつて塔や金堂、回廊を備えた巨大寺院と、現在の小さなお堂。

その違いを見ると、千年以上という時間の長さを感じます。

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私はこうした寺院跡を訪ねるたびに、

「これほど大きな寺院でも、なくなってしまうのか」

と思います。

しかし山田寺の場合、「なくなった」という言葉だけでは少し違うのかもしれません。

建物は失われました。
仏さまも山田寺を離れました。

それでも寺の名前は残り、史跡が残り、土の中からは飛鳥時代の回廊まで姿を現しました。

そして現在も、小さな山田寺がその場所にあります。

ならまちから、古代の道を南へ

山田寺の近くには、飛鳥へと続く古代の道「山田道(阿倍山田道)」が通っていました。

この道は桜井方面から上ツ道へとつながっていきます。私どもの店があるならまちも、上ツ道と深いつながりを持つ場所です。IMG_7645.jpeg

もちろん、現在の道を店の前から一本そのまま南へ歩けば山田寺に着く、という意味ではありません。

それでも、ならまちから天理、三輪、桜井、そして飛鳥へ――。

古代の人や物が行き交った道を頭の中でつないでみると、山田寺が少し身近に感じられます。

現在の山田寺跡に、大きなお堂や塔はありません。

広い空の下に、かつての金堂や塔、回廊の跡が残っています。

だからこそ、少し立ち止まってみたい場所です。

蘇我倉山田石川麻呂が造ろうとした寺。

藤原道長が目にした「奇偉荘厳」の大伽藍。

そして、そこに祀られていた仏さま。

今は見えなくなったものを現在の風景に重ねてみると、何もないように見えた史跡に、少しずつ昔の姿が浮かんできます。

奈良や飛鳥には、そんな「想像して楽しむ場所」がたくさん残っています。

 

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