【崇神天皇陵の堀が「世界かんがい施設遺産」に|古墳の水が田畑を潤してきた歴史】
山の辺の道を歩くと、大きな水濠をたたえた崇神天皇陵が見えてきます。
宮内庁が崇神天皇陵に治定している「行燈山古墳」は、全長約242mの大きな前方後円墳。その周囲をめぐる「崇神天皇陵堀」が、2026年8月、世界かんがい施設遺産に認定されることが決まりました。奈良県では初めての認定です。
「古墳の堀が、なぜ“かんがい施設”なのだろう?」
今回のニュースを知って調べてみると、そこには奈良らしい、長い歴史の積み重なりがありました。
幕末、古墳の堀が農業用水に
古墳そのものは古代につくられたものですが、現在の崇神天皇陵堀には幕末の大規模な改修が関係しています。
当時、この地域では農業用水の不足が大きな問題となっていました。
そこで柳本藩は幕府と交渉し、1864~65年に崇神天皇陵を自費で改修。堀を規定より大きく整備する代わりに、そこに蓄えられた水を農業用水として利用する権利を得ました。
これによって、当時約140haもの水田の水不足解消につながったとされています。
天皇陵を守るための堀が、地域の人々の暮らしを支える「水がめ」にもなったのです。
柳本藩は、信長の弟・有楽斎につながる織田家
そして、この柳本藩の歴史も興味深いものです。
柳本藩の藩祖・織田尚長は、織田信長の実弟で、茶人としても知られる織田長益(有楽斎)の五男でした。
つまり柳本藩は、有楽斎から続く織田家です。
戦国時代の織田家というと尾張や安土を思い浮かべますが、その一族が江戸時代を通して大和の柳本を治め、幕末には地域の水不足を解消するために崇神天皇陵の改修に取り組んでいた。
奈良の歴史をたどっていると、思いがけないところで有名な人物や出来事につながることがあります。
160年後の今も続く「藩主祭」
さらに面白いのは、この出来事が昔話だけで終わっていないことです。
柳本には、崇神天皇陵の改修によって農業用水を得られたことへの感謝を伝える「修陵餘潤之碑」が残されています。
そして現在も、田植えが終わる頃には旧柳本藩主の子孫を招いて「藩主祭」が行われています。
幕末に整備された堀の水が田畑を潤し、その恩恵を受けた地域の人々が約160年を経た現在まで歴史を伝えている。
今回の世界かんがい施設遺産への認定では、施設そのものだけでなく、こうした地域による歴史の継承も評価されています。
山の辺の道を歩くとき、「水」にも注目を
崇神天皇陵は、山の辺の道を歩く際にもよく知られた場所です。
水をたたえた大きな堀と、その向こうに横たわる古墳。
何気なく眺めれば美しい陵墓の風景ですが、その水には、
古代の巨大古墳、幕末の柳本藩、農業用水を求めた人々、そして現在まで続く地域の暮らし
という長い時間が重なっています。
奈良では、目の前にある古いものが、ただ「昔の姿を残している」だけとは限りません。
時代ごとに人々が関わり、使い、守りながら、現在の風景になっていることがあります。
今回の「世界かんがい施設遺産」認定を知ってから崇神天皇陵を見ると、これまで古墳を囲む風景の一部として眺めていた堀も、少し違って見えてくるのではないでしょうか。
山の辺の道を歩かれる際には、ぜひ崇神天皇陵の「水」にも注目してみてください。